1.問題の所在
本欄では「味を表す普通の言葉は味が存在する根拠になる」と指摘している。この指摘には「普通の言葉」が含まれる。この普通の言葉は、以前に使用していた日常用語を言い換えたものである。言い換えた理由は前項ページと同じで、認知言語学における言葉と認識の関係についての知見を活用するので、用語でなく言葉を使用する必要があるためである。日常用語のままだと日常用語と認識の関係となって、言葉と認識の関係がそのまま適用できるかについて、別の考察が必要になる。
日常用語は、単に言葉ではなく、普通の言葉と言い換えている。言葉だけだと、日常用語の対義語である学術用語も含まれてしまうからである。学術用語の場合は、認知言語学でいう認識と言葉の関係が当てはまらない。
2.言葉と普通の言葉の違い
改めて、言葉と普通の言葉の違いを考察する。普通は特徴のない語である。たとえば広辞苑では、普通を「広く一般的であること」と語釈しているように、捉まえどころのない用語である。そこで、言い換える前の用語であった日常用語とその対義語である学術用語を比較する。また、普通の言葉は一般用語の類語なので、一般用語の対義語である専門用語と日常用語も比較する。
1)日常用語と学術用語の比較
日常用語とは日常生活で使用される用語で、学術用語とは学術の目的で使用される用語である。学術用語では、用語の名称は学者・専門家が付け、その意味も用語を提案した時に定義される。これに対し、日常用語では用語の名称は自然発生的に生まれ、用語の意味は長く使用される過程で形成される。用語の意味は一定の方向に収束していくが、それを定義することは一般に困難である。@言葉が自然発生的に生まれることと、A言葉の意味が使用される過程で形成されることの二つの相違は重要である。学術用語に対する日常用語のこの特徴は、普通の言葉にそのまま当てはまる。
2)日常用語と専門用語の比較
もう一つ、日常用語と専門用語を比較する。専門用語は、特定の分野で専門家が使用する用語である。学術用語も専門用語の一部とされる。専門用語の意味も一般に定義されるが、必ずしもそうとはいえない。また、味は生活に密着した言葉なので、専門用語と日常用語を隔てる敷居は低い。専門用語と日常用語の違いはむしろ、専門用語の方が豊富な用語が活用される反面、一般の人にはあまり使用されないことにある。つまり、日常用語は一般の人に広く使用されている言葉であることに特徴がある。この特徴を普通の言葉にあてはめると、普通の言葉は一般の人に広く使用されている言葉となる。この事実は重要で、「言語的根拠になる言葉」のページで活用する。
3.普通の言葉が生まれ定着する条件
主な論点は以上のとおりであるが、日常用語と学術用語の比較から、普通の言葉は自然発生的に生まれることを指摘した。このことを、もう少し具体的に説明しておく。
たとえば優しい味の確認できる初見は、1987年の読売新聞の広告記事である。この初見が本当に最初かもしれないが、おそらくは初期の使用例の一つであろう。その少し前に、誰かが優しい味と表現した。この誰かを、Aさんと呼ぶことにしよう。Aさんが優しい味と表現したのは、Aさんの脳に優しいと表現できる概念が形成されていたはずである。概念は多様な要因で形成されるが、優しい味の概念は味の認識に基づいて形成されたといえる。すなわち、日頃から食べている料理に、Aさんは優しい味と表現されるような認識を得ていたのである。長く暗黙認識(知)として留め置かれたであろうこの認識を、Aさんはある時に優しい味と表現した。これが新しい味の言葉が生まれた瞬間である。同じようなことが、Bさん、Cさんと同時多発的に起きたであろう。
この段階では、まだ普通の言葉になっていない。創造的な言葉が発せられたにすぎない。普通の言葉になるには、もう一つ大事な段階がある。言葉が定着することである。言葉が定着するためには、発せられた言葉がコミュニケーションのツールとなることが必要がある。話し言葉であれば、それを聞いた人が理解できて、その言葉を話した人に返すことが必要である。書き言葉であれば、それを読んだ人にも心当たりがあって、今度はその人が発信する。このようなことが可能になるためには、それを聞いたり読んだりした人の脳にも該当する概念が形成されている必要がある。その概念も認識に基づいて形成されている。つまり、言葉が定着するのは、形成された認識が多くの人に共有されている場合に限られる。
4.普通の言葉の意味が形成される過程
日常用語と学術用語の比較から得られたもう一つの知見は、普通の言葉の意味は長く使われている過程で形成することであった。このことも、もう少し具体的に説明しておく。
言葉は、記号(文字と音声)と意味で構成されている。学術用語と違って、誰も定義しないのだから、普通の言葉の意味は、長く使用される過程で自然に形成されることになる。ここで重要なのは、言葉がコミュニケーションのツールという事実である。言葉は、その意味ではコミュニケーションが成り立たない場合、使用されなくなる。逆にいうと、普及して定着している言葉の意味は多くの人に共有されているはずである。共有されている言葉の意味は自ずと一定の範囲に収束する。
ここで指摘しておきたいことは、普通の言葉の意味には曖昧さがあり、しかも時代とともに変化することである。数学の公理・定理とは全く異なる。したがって、自然科学分野の人には違和感があるかもしれない。しかしながら、人間が対象になる場合は、このような曖昧さは不可避である。味のような人間科学分野を含む事象を対象にしながら、その曖昧さを否定するような態度は、それこそ科学的でない。
(2020年1月作成)(2022年1月改稿)