味と味覚はしばしば混同される。たとえば、広辞苑では、味は「飲食物が舌の味覚神経に触れた時におこる感覚」と語釈して、味覚は「味覚器官に化学物質が刺激となって生じる感覚」と語釈している。使用している用語は異なるが、結局同じ説明にみえる。ただし、広辞苑の説明は、認識の内容だけであって、感覚の種類の説明がないことを指摘しておく、英語の感覚にはsenseとsensationの二つあるが、広辞苑の味覚の語釈にある感覚は、sensationだけである。
言語学者の山口は、味覚は認識の内容で、味はそれが写像された食品の属性として区別している1)。言い換えると、感覚で捉えられた感じそのもの(すなわち認識の内容)は味覚であり、味は食品の属性の意味だけである。これを正確な区別とみなすのは間違いであるが、その傾向のあることは確かである。
山口は同じ記事で、「「味がいい」と「味覚がいい」は混同されない。前者は味の内容が優れていることを評価しており、後者は感覚器官の優秀さを褒めているのである。」とも記述している。この場合、味覚は認識(感覚)の内容ではなく感覚の種類を意味している。
「味覚とは」のページでも説明したように、味覚は、不思議なほど広い意味を持っている。味覚には、@感覚の種類、A認識のレベル、B認識(感覚)の内容、C食品の属性、D食品自体の5種類の意味がある。そして山口が指摘したように、B認識の内容を意味することは、味覚の方が味より多いのである。
この味覚の5種類の意味を味に当てはめると、興味深い知見が得られそうである。まず、@感覚の種類とA認識のレベルであるが、味がこれらを意味することはない。
しかし、B認識の内容については、味も意味することがある。というより、使用頻度は味覚より少ないけれども、認識の内容が味の本義である。また、認識の内容の範囲は、味の方が味覚よりずっと広い。というのは、味覚の認識の内容には、@感覚の種類とA認識のレベルに関わる制約がある。すなわち、味覚の認識の内容は感覚の種類が味覚だけで、認識のレベルは感覚だけである。だから、味覚の認識の内容は、二つの条件を満たす五基本味に限られる。これに対し、味では感覚の種類が味覚とともに嗅覚や触覚も可能であり、認識のレベルは感覚とともに知覚や認知も可能である。だから、味には「味覚性味」である甘味だけでなく、「痛覚性味」である辛味とか「触覚性味」である渋味も含まれる。更に、感覚の味である甘味や苦味だけでなく、知覚の味である風味や滋味さらには認知の味であるイチゴ味やおふくろの味なども含まれるのである。
味がC食品の属性の意味を持つことは、山口も指摘している通りである。この用法は味の方が味覚より圧倒的に多い。D食品自体を意味することも味の方が多い。味覚でも「秋の味覚」のように食品自体を意味することが少なくないが、言葉の用法としては特異的である。というのは、嗅覚や触覚など他の感覚にはみられない用法である。この種の用法が何故味覚だけに多いのか。その理由は推察できないでいる。
言葉としての味の歴史は古い。風土記や万葉集に使用例があり、8世紀には存在していたことがわかる。一方、味覚は19世紀後半に登場した訳語である。味覚が登場する前には、味覚に相当する語として舌識があった。この語はあまり使用されなかったようであるが、日葡辞書に採用されている。ポルトガル語で味覚(Sentido
do gosto)と語釈されている。舌識は舌による認識と理解できるので、味覚が登場する前の味が舌識とすれば、辛味や渋味そして風味や滋味が味の名称で呼ばれていたことが納得できる。
以上の考察から、五基本味だけなのは味覚であって、味ではないことが理解できる。だから、「辛味は味覚でなので、味ではない」という主張は、全くの誤解である。
参考資料
1)山口仲美:味と味覚を表す語彙と表現, 日本語学, 19(6), 30-35, 2000.
(2019年12月作成)(2021年6月改訂)