味は誰もが毎日感じているものなので、用語の意味は共通と思われるかもしれない。しかし、実際には逆で、誰でも使う言葉だからこそ、その意味は拡散している。改めて問うてみると、味の意味もかなり曖昧である。日本人と外国人ではもちろん、日本人の間でもかなり異なっている。少なくとも日本人が使用する味の意味は、きちんと整理しておきたい。
このような例では、まず辞書に当たるのが常識的である。まず、広辞苑(岩波書店)によれば「飲食物が舌の味覚神経に触れた時におこる感覚」としている。この説明は味の意味を狭く捉えている。一方、新漢和大字典(学習研究社)によれば、味とは「あじ、あじわい、もののあじの感覚」としたうえで、「口で微細に吟味すること」と説明している。この説明は味の意味を広く捉えている。国語辞典と漢和辞典の違いがあるとはいえ、広辞苑と新漢和大辞典で説明がかなり異なる。
日本大百科全書(小学館)によれば、味を「飲食物を口に入れたときに感じる感覚」と説明している。一方、世界大百科事典(平凡社)によれば、味を「飲食物などが舌の味覚神経に与える感じ」と説明している。日本大百科全書の説明は新漢和大字典に近く、世界大百科事典の説明は広辞苑に近い。
専門用語辞典である栄養・食糧学用語辞典によれば「飲食物中の呈味成分が口腔内の味蕾にある味細胞と化学的に結合し、その情報が味神経を経て大脳に伝わることによって知覚される感覚」としている。この説明は広辞苑に近いが、専門用語辞典の説明は、当然のことながらより詳細である。
このように、味についての一つの見解は、味を五感の一つである味覚で感じられるものと捉える。すなわち、味覚生理学における知見を重視する。広辞苑や栄養・食糧学用語辞典の説明は、この見解を踏まえている。この見解に立つ場合、しばしば水溶性の化学物質であること、味覚器官に受容されること、そして脳に伝達する経路が味覚神経であることが味であることの条件になる。味の意味を厳格に捉えており、そして味とは何かを明確にしている。
味についてのもう一つの主要な見解は、味を口腔内で感じられるものと捉える。すなわち、人々の生活実感に準拠する。新漢和大事典や日本大百科全書の説明は、この見解を踏まえている。味の意味を広く捉えていて、そのためもあって味の意味はやや曖昧である。
本サイトでは、味とは「化学物質または食品からの刺激が、口腔内で舌などに受容されることにより、脳内に形成される認識である」と定義する。ここに、食品には食材や料理を含み、認識は感覚・知覚・認知を統合した意味で用いている。注目して欲しいのは、味を感覚ではなく認識としていることである。味とは、認識に外ならない。また、甘味や苦味は感覚と呼ぶこともできるが、甘酸っぱい味やコク味あるいはあっさり味は知覚であり、ご飯の味やイチゴ味は認知である。
上の定義は、どちらかというと新漢和大字典の見解に近い。味とは本来的に人間が感じるのものである。一般の人々は、生活実感に則して味という言葉を使っている。個々の人の表現は矛盾に満ちたものかもしれないが、言葉はコミュニケーションの手段なので、自ずと最大公約数的な用語・用法に収束しているものである。
補足しておくと、味という字は中国から伝来した。音読みでは「み」となるが、これは呉音である。ただし、中国から字が伝来した頃、日本には「あぢはひ」という言葉があった。「あぢ」は「あぢはひ」から派生したと考えられている。味が訓読みでは「あじ」となるのはこのためである。「あじ(あぢ)」と「あじわい(あじはひ)」の区別は江戸時代までは曖昧であった。区別が明確になったのは、19世紀後半に西洋科学が導入されてからである。おそらくは、味覚(gustatory
sense)の概念が導入されたことに影響された。
蛇足ながら、漢字の「味」は食品の味だけを対象とした字ではない。意味あるいは興味のように、広辞苑の味の項で、A「体験によって知った感じ」以降で説明されている用法もある。このような使用例は、ここでいう味の対象外である。
(2019年11月作成)(2023年10月改稿)