おいしさと食べ物のおいしさの関係は、栄養と食べ物の栄養性と同じである。おいしさと栄養は、人が食べ物により影響を受けた結果であり、食べ物のおいしさと食べ物の栄養性は人に影響を与える食べ物の性質である。
栄養と食べ物の栄養性が混同されることはない。ところが、おいしさと食べ物のおいしさはしばしば混同される。その理由の一つは、栄養は体への影響であるのに対し、おいしさは心への影響のためである。近代科学は、自然科学を中心に進歩し、体(モノ)の分析・計測手法は顕著な進歩を遂げたが、心の分析・計測手法は進歩が遅々としている。もう一つの理由は用語である。栄養では食べ物の栄養性から「食べ物の」を省いて栄養性とだけ記述しても栄養とは明確に区別される。一方おいしさでは、食べ物のおいしさから「食べ物の」を省くとおいしさとなって、おいしさと区別できない。食べ物のおいしさを食べ物のおいしさ性と呼べば、このような問題は解消されるはずであるが、社会に定着している言葉を修正することは、実際的ではない。
一般の人の言葉が混乱しているのは、珍しいことではない。しかしながら、おいしさと食べ物のおいしさの用法は、食品の専門家がしばしば混乱している。一般の人も食品の専門家も、目の前にある食べ物のおいしさに関心がある。おいしさと食べ物のおいしさが区別されないのであれば、単においしさという方が便利である。とはいえ、少なくとも食品の専門家は、おいしさと食べ物のおいしさをきちんと区別したい。
おいしさと食べ物のおいしさの違いを端的にいうと、おいしさは人の感情であり、食べ物のおいしさは食べ物の性質である。おいしさは人の主観的な評価であるのに対し、食べ物のおいしさはモノの客観的な性質であるとも説明できる。
実は、食べ物のおいしさには、おいしさに近い意味から食味に近い意味まで幅がある。このことを、筆者が提案しているおいしさの定義を使って説明する。
この定義では、おいしさとは「人が食べ物を摂取した時に起きる好ましい感情である。この感情には情動・快感・感動も含まれる。」としている。この定義は二文で構成されているが、二文目は補足なので省略すると、食べ物のおいしさは「人に好ましいと感じさせる食べ物の性質」と言い換えることができる。問題はこの「人」である。人には、個人の場合と集団の場合さらには普通の人(消費者・日本人)の場合などが想定できる。話を単純にするために、個人の場合と普通の人の場合に絞る。そうすると、個人の場合は「人(個人)に好ましいと感じさせる食べ物の性質」となり、普通の人の場合は「普通の人に好ましいと感じさせる食べ物の性質」となる。前者では、食べ物のおいしさが食べる人の嗜好や生理状態あるいは心理状態で変わることが明らかである。すなわち、おいしさの意味を色濃く残している。一方、後者では個人の嗜好や食べる時の生理状態などはほとんど問題にならない。そして普通の人の場合は、日本語の特徴でもある語らざる前提で省略できるので、「摂取された時、好ましいと感じさせる性質」と言い換えることができる。この記述は、食味のページで説明した食味の定義と一致する。つまり、食味の意味に近いのである。
食べ物のおいしさを評価するニーズは、非常に高い。このために、官能評価とか鑑評会・品評会がいろいろなところで行われている。その結果は、食べ物のおいしさ(または食味)であって、おいしさではないことに留意したい。特に分析型官能評価においては、人による変動はノイズであって、統計的処理で除去する対象である。