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おいしさとは


 おいしさは、誰でもわかっているのに、専門家の説明は混乱しているという、不思議な代物である。

 おいしさの理解が、専門家も混乱している理由を四つ挙げる。一つは、@おいしさが食べ物による人の心への効果のためである。安全や栄養は人の体への効果なので、近代科学の対象になりやすいが、心の問題は近代科学も未熟である。次に、Aおいしさには多層性がある。つまり、おいしさは人の感情であるが、感情の一語だけでは言い表せない。おいしさには、情動・快感・感情・感動などの言葉で表現できる多層性がある。そして、Bおいしさは人が感じるものなのに、専門家は生産者サイドばかりで、生活者視点に立つ専門家がいない。安全や栄養には医者や食品衛生監視員・栄養士がいるが、おいしさにはこのような専門家はいないのである。このことが、おいしさと食べ物のおいしさが混同される背景にある。最後に、C言葉の問題がある。おいしさは和語でしかも女房詞であった。それがそのまま専門用語になったので、専門用語らしくないのである。たとえば安全の場合は「食品の」が付くと安全性になるが、おいしさの場合は「食べ物の」が付いてもおいしさのままである。このことも、おいしさと食べ物のおいしさが混同される原因となっている。

 このような事象を理解するための常道として、まず辞書にあたる。広辞苑(第七版)をみると、おいしさの項目はなくて、あるのはおいしいである。おいしいは、『「おいしい[形](「いしい」に接頭辞「お」が付いてできた語)@美味である。A好ましい。もうけになる。都合がよい。』と説明されている。付け加えると、古い版では『「うまい」より上品な語』の説明もあったが、削除されている。おいしさの項目がないのは、 おいしさがおいしいの派生語のためらしい。大辞林や大辞泉でも項目はおいしいで、うまいにも言及しているが、説明は概ね同じである。

 専門用語辞典を探すと、丸善食品総合辞典と調理科学事典に項目があった。前者ではおいしさを「食べ物を摂取したとき、快い感覚を引き起こす性質のことである。」としている。そのうえで「生理的要因、心理的要因、食習慣、外部環境など」 にも言及しているが、「広義に解釈するならば、」の条件付きである。後者では「食物を食べたとき、満足感がある。これがおいしさである。」と簡単である。

 おいしさについての説明や解説は、教科書的な書籍や食べ物関連雑誌に多数公表されている。伝統的な捉え方は、まず味があり、それに続いて香り・テクスチャー など五感の総合である食味の重要性を指摘する。そのうえで食味以外の要素として、外部環境、食環境、生体内部環境なども係わることを指摘する。

 おいしさを定義した例はほとんどなく、筆者の提案を含めて4点しか見つからない。しかも、個人的な見解ばかりである。公的な機関による定義としては、唯一JIS Z 8144官能評価分析ー用語で見つけることができる。ここでは、おいしさとは「食べ物を摂取したとき好ましい感覚を引き起こす性質」としている。この定義はおいしさというよりも、食味の定義である。

 以上のように、従来の考察を通観すると、おいしさを食べ物の性質とする見方に囚われていることが指摘できる。これでは好きなものはおいしいとか、空腹の時はおいしい、そして嬉しい時はおいしいという人に係わる部分が決定的に弱い。

 本サイトでは、おいしさとは「人が食べ物を摂取した時に起きる好ましい感情である。この感情には情動・快感・感動も含まれる。」と定義する。

 この定義でいちばん強調しているのは、@おいしさとは人が感じるものであり、食べ物の性質ではないことである。そして、おいしさでは人が主体で食べ物は客体である。とはいえ、人の係わりが主で食べ物の係わりが従という意味ではない。おいしさの対象になれるのは、食べ物だけである。また、たいていの人にとっておいしい食べ物は確かにあるし、たいていの人にとってまずい食べ物も確かにある。したがって、人と食べ物の両方が主役とみなすのが妥当である。次に、A感覚でなく感情ということである。つまり、おいしさは受容された感覚特性だけで自動的に決定されるのではなく、食べる人が評価した結果としての感情である。すなわち、食べる人の嗜好や生理状態あるいは心理状態などの多様な要素が評価に関与する。そして3つ目は、Bこの感情には情動・快感・感動も含まれることである。定義で注書きするのは一般的でないが、おいしさの多層性からやむを得ない措置である。感覚との区別を明確にするために感情を採用しているが、おいしさは感情だけかと問われると、答えに窮する。おいしさは感情だけで表現できるものではなく、情動・快感・感動も含まれるからである。これらの4つの用語の意味を一語で表す言葉は見つからない。

 おいしさの全貌を理解することは、幸福の全貌を理解することと同じで、実現不可能な試みである。しかしながら、おいしさは摂食に伴う幸福ともいえるので、幸福よりは理解しやすいはずである。おいしさの全体像ならば、理解可能と信じられる。

(2013年9月作成:柳本)(2022年11月最終改訂)