食品分野では一般に安全・栄養・おいしさの重要性が指摘される。ところがこの重要性を指摘する人は具体的な話になると安全か栄養のどちらかになる。おいしさを話題にした人は見たことがない。
食品は安全であることが前提であり、そもそも食品を摂取するのは栄養を獲得するためなので、安全や栄養の意義は分かり易い。これに対し、おいしさの意義は分かり難かったためであろう。
しかし、これは食品による心の癒やしへの効果が軽視されてきたためである。栄養が人の体の糧になるのに対し、おいしさは人の心の糧になる。20世紀は物の時代で、21世紀は心の時代といわれる。20世紀には物(食品)の確保がまだ不充分だったので安全と栄養が重要だったけれども、物は充足した21世紀では、心に係わる要素であるおいしさの重要性が増している。
おいしさというと、高級料亭や高級レストランでの贅沢な料理を想像するかもしれない。それもおいしさに違いないが、それならば必ずしも社会的に意義があるといえない。何故なら高級料亭や高級レストランでの贅沢な料理は一種の遊興であって、平素の食事ではない。
おいしさの意義を見出すべきは、家庭における食事に対してであり、普通のサラリーマンのささやかな外食に対してである。
社会的に栄達した人、青雲の志を持った人あるいは燃えるような恋をしている人は、既に心が充足しているので、必ずしもおいしい食事は必要でないかもしれない。しかし、多くの国民は社会の一隅で小さな灯をともしながら懸命に生きている。社会を黙々と支えている市位の人にとっては、
食事で心を癒やせることが大切である。
おいしさへの批判として一見もっともらしいのは、おいしい食事だと食べ過ぎるという指摘である。確かに日頃は粗食で済ませている人が偶においしい食事にありつくと、食べ過ぎるかもしれない。しかし、日頃からおいしい食事を享受できている人が別のおいしい食事にありついても、食べ過ぎることはない。食事指導における目標が栄養確保から過剰摂取の戒めへと変化しているけれども、おいしい食事で量を自制する方が、まずい食事で量も制限するよりも容易だと信じられる。
消費者(国民)がおいしい食事を満喫することにより心の安寧を持つならば、常識的な判断基準で行動するようになり、社会の安定に役立つ。カルト集団の多くは信者に粗食を強いている。粗食に耐えている人は扇動的な言動に影響され易くなる。
性の悦びと食の歓びは、前者は種の保存のために、後者は個体の維持のために必要である。どちらも大事だから、快感が伴うようになっている。